日本本土の最西端に位置する佐世保市は、明治22(1889)年に鎮守府が開庁すると、近代的な軍港都市として急激に発展を遂げました。今もなお残る鎮守府由来の施設は、100年近く経つにも関わらず、一度も剥落したことのないような強固なコンクリートや、錆びてもなお崩れる様子のない純度の高い鉄の扉など、渋さの中に垣間見える奥の深い歴史があります。
パッと見では認識しにくいその要所要所で、当時の日本人の海軍設備投資への妥協のなさ、そして西欧列強への憧れを感じずにはいられません。
しかし、開港以前の佐世保市は、漁村としての性格が強く、都市機能と言えるものはあまりありませんでした。これは佐世保に限らず四港ともに言えることであり、この一大国家プロジェクトの誘致には、様々な地域が手を挙げたと記録されています。
多くの地域が誘致を望む中、佐世保湾は奥が深く、外洋から見渡すとそこに港があるとは想像もつかない地形だったことが、四港として選ばれた理由のひとつなのだそうです。事実、佐世保湾の両端である高後崎と西彼杵半島との一番近い距離は数100mほどしか開いておらず、まだ飛行機で上空から観測することができなかった当時、船からではその奥にこれだけの港が拡がっているとは確認できなかったのだと想像できます。
明治、大正、昭和をかけて軍港都市として成長していった佐世保ですが、太平洋戦争時に空襲に遭うまでの数十年、海路からの侵入・攻撃を受けずに済んでいます。ゆえに、大規模な国家予算を投入した様々な施設群が、壊されることもなく自然と融合しながら今もなお残っているのです。
とはいえ、空襲で焼け野が原となってしまい、そこから復興したからこそ今の佐世保の姿があるとも言えます。佐世保バーガーや海軍さんのビーフシチューなどの「海軍グルメ」、碇のモチーフやマストのデザインなど、街のいたるところで目にする「海軍」の景観要素は、戦前への憧憬や歴史が意識されて受け継がれているものだと感じることができます。