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ブログタイトル 野中駅から将冠岳に登る(させぼの歩き方:コース3)

野中駅から将冠岳に登る(させぼの歩き方:コース3)-1

九十九島と市街地を眺ながら、歴史も知る将管岳の山歩き。

将冠岳に吉岡町から登るルートがあるのを知る人は少ないだろう。
少しハードだけど面白い登山道だ。
MR野中駅を朝7時半に出発。風神神社を見て進むと、右手に石垣の白い家がある。
武家屋敷の名残があり、「静観山の家」と呼ばれる。幕末の儒学者楠本端山がたびたび訪れて将冠岳の眺めを楽しんだという。

分かれ道を右へ進む。
落葉が堆積して判りづらいが炭鉱時代のコンクリート道だ。
登山道の表示があった。階段を上ると、金比羅神社に着いた。相浦が一望出来る。汗ばんだ身体に風が爽やかだ。

さあ、これから本格的な登山だ。
薮に分け入って斜面を登ると、水が湧く古い道に出た。そこから左に、大石がゴロゴロした急斜面を這うように登る。
登りきると、「中吉越」の表示がある。

そこから稜線伝いに行き、展望がいいアサンキ(朝気)岳に着いた。ここは標高400m。
さらに進むと、横尾町方面が望める崖の上に出た。柱状節理が切り立って壮観だ。

龍宮岩という祠があった。それをまわり込むように上がると、ようやく将冠岳山頂(445・1m)に着く。
ひとやすみだ。ここから眺める九十九島も美しい。

将冠岳から昔の道が高筈分岐まで下っているが、今回は中通登山口に下る。
杉木立の斜面に、アオキが茂っている。
やがて中通町から来る車の道に出た。雑木林を進むと、やがて但馬越に着く。
鳥居を潜って、戦国武将遠藤但馬守を祀った小山に立ち寄った。

さらに林の中の急勾配を喘ぎ、奥弓張の但馬岳(385m)へと登る。
息が上がるほどハードだ。
頂上の砲台跡は公園化されていて、ここから見る九十九島もいい。

それから弓張岳展望台(364m)へ。
晴れた日には九十九島から市街地まで一望できる。
ここからの眺めは凄い。佐世保は綺麗な街だな、と誰もが思うだろう。
弓張の丘ホテルへ下る道の途中に、いくつも文学碑がある。
昔は桜の名所として賑わったようだ。

下り道は鵜渡越の旧道を辿る。
そして「嗚呼第四十三号潜水艦の碑」を通り、第十九代海軍佐世保鎮守府長官・財部彪が九十九島の絶景を見せるため老母を背負って登ったという逸話がある「不老坂」を下る。
やがて御船町に着いた。
 

【check!!】弓張岳の広場には文学碑が並んだ散歩道がある

「空いっぱいに空があるように」と、平戸出身の藤浦洸は西海の自然をおおらかに詠いあげている。この詩をモチーフに交響詩「西海讃歌」が生まれた。

昭和44年、西海国立公園制定10周年記念として「西海讃歌」を作曲した團伊玖磨は、弓張岳で「空いっぱいに」の碑を見て触発されたという。海と島の雄大さをイメージする交響詩だ。

「七つの子」など多くの童謡を作った詩人、野口雨情。昭和2年に公演のため佐世保を訪れたとき、童謡指導を兼ねて即興で、この弓張岳の詩をつくった。

日本浪漫派の代表的作家、吉田弦二郎は明治の佐世保鎮守府開設のころ、少年時代を佐世保で過ごした。「ふるさとの春の山こえなつかしき」と書かれた望郷の詩である。

「かなしみの雪ふる島あり」と佐世保出身の坂口涯子(秀二郎)は詠っている。九大医学部出の医師。「俳句基地」「説角」主宰。句集に「雲づくり」「航海日誌」がある。

Column

前岳砲台跡について

明治22年(1889)に佐世保鎮守府が開設されると、それを囲んで要塞施設が陸軍によってあちこちに作られた。将冠岳の尾根が延びたところにある前岳には、御影石や煉瓦を使った見事な砲台跡が残っている。明治34年に完成したもので、相浦谷を登って攻めてくる敵に備えて、小型のカノン砲が設置されていた。これらの砲台は、ついに使われることはなかった。

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